綱脇妙龍上人


本秀寺30世 田中豊久 師匠(平成7年遷化)

 

明治9(1876)-昭和45(1970)福岡県宗像市生まれ

日本で初めての民間のハンセン病療養所、『身延深敬園(じんきょうえん)』を つくったお上人で、60年以上もの長い年月にわたってハンセン病患者の救済に尽くした人です。

網脇妙龍上人

◇明治9(1876)年1月24日、福岡県宗像(むなかた)郡池野村 (旧玄海町=宗像市)に
生まれました。幼名は順作といいました。
お父さんは農業を営んでいましたが漢学の素養があり、 法華経に篤い信仰を持つ人でした。

◇高等小学校卒業後の明治24(1891)年、和田屋という醤油醸造 業兼質古着商に奉公しましたが、 ひ弱な体質と過酷な労働により3ヶ月ほどで肺結核を患って帰郷。
「余命3年、空気の いいところで10年」と告げられましたが、療養の末、病から快復することができました。

◇療養中に宗教心に目覚めます。明治25(1892)年1月檀那寺、法性寺の住職日良上人より
龍妙日琢の僧名をもらい出家します。
明治26(1893)年夏、上人が福井県の妙泰寺に転住するのに随行しました。
この頃、生涯を決定づけることとなる常不軽菩薩品という法華経のひとつに出会い
人間礼拝」の思想が生まれます。妙泰寺での3年あまりの修行の後、勉学のため京都へ行き
檀林=仏教の学問所で6年半学びました。
明治37年(1904)5月、 日露戦争のさなか福井の妙泰寺に戻り、岩崎貞さんと結婚します。
翌年東京へ、 哲学館=(現在は東洋大学)で学びました。

◇東京では、小石川若荷谷(みょうがだに)にある寄宿舎に入りました。
龍妙上人は ここで共同生活していた2人の友人と明治39(1906)年7月、身延山を訪れ
三門付近に群がるらい患者の様子を目の当たりにします。山形からきたという15〜16歳の
少年との出会いに深く心を動かされました。
祖廟(そびょう=日蓮聖人 のお墓)に参籍し、日蓮聖人の啓示を受け救らいの決意をします。


●ハンセン病とは

 

らい菌の感染によりおこる病気で、以前はらい病、ハンセン氏病とも呼ばれていました。

ハンセンは、明治6(1873)年にらい菌を発見したノルウェイの医師の名前です。
鼻や気道から感染しますが、多くの人は免疫があり感染せずにすみます。
潜伏期間は数年から数十年。らい菌に対する免疫の少ない人が感染すると結節(けっせつ)という腫瘍が体や手足にでき変形し、眉毛や頭髪が抜けるなど、顔貌(がんぼう)に独特の様相が現れます。
免疫のある人が免疫低下により感染する場合は、皮膚に紅色斑が現れます。結節、斑紋には知覚麻庫が伴います。古くから感染者は差別され、近代になっても外見にはっきり表われるため差別が続きました。遺伝病と考えられていため感染者の家族も差別の対象でした。
のちに感染病であることが証明されるのですが、不治の病であるとの理由で恐れられ、差別や偏見がさらに激しくなりました。症状が梅毒に似ていることもあって、それも差別の一因となった時期もあります。 明治33(1900)年の内務省)調査では感染者数は約3万人とされていますが、実際にはその2倍はいたとも考えられています。
現在では、感染しても初期なら完治でき、悪化した場合でも進行を止めることができます。

世界では年間約30万人の新規患者が報告されていますが、日本においては年に5名以下ということです。

国立ハンセン病療養所が13ケ所、私立が2ケ所あり、入所者数は平成18(2006)年12月現在3000名弱で、その多くが高齢者です。ほとんどの人がすでに治癒しているものの、社会復帰が困難なため支援を受けている実情があります。 治癒しているものの、社会復帰が困難なため支援を受けている実情があります。



◇綱脇龍妙上人は、御殿場のらい療養所「復生病院」(明治22年設立)を視察のため訪問します。

東京では内務省に通い、東京にきていた久遠寺法主の豊永日良上人に直談判して協力を得ます。同じ明治39(1906)年の10月12日、日本初の私立らい療養所『身延深 敬園(じんきょうえん)』を創立しました。
身延山参拝からわずか3ヶ月後のことです。 身延山内の身延川沿いに仮病室が建てられ、川原で生活していた13名を収容しました。 思い入れのあった常不軽菩薩の「我深敬汝等」一我(われ)深汝等(なんじら)を敬(うやま)うという教えから『深敬園』と名づけました。

◇当初は理解者が少なく多くの迫害や中傷が加えられ、国の社会福祉施策はまったくなく、 皇室のご仁慈以外のすべての経費は私財と托鉢、―厘講、篤志家の寄付で賄われまし た。一厘講というのは、毎日一厘ずつためたお金を寄付してもらうもので、―厘は今の 一円くらいです。寄付を求めて山梨県内だけでなく東京、 静岡、愛知、大阪、岡山、福井 などへも出かけました。大正9(1920)年財団法人の認可を得ます。昭和(1930)年には 九州に分院を開設しますが、こちらは昭和17(1942)年軍事保護院の要請により閉院し、 敷地を提供しました。

◇妻の貞さんは大正10(1921)年に福井から身延へ移ってきました。深敬園の看護婦長と して留守を守り、昭和32(1957)年9月79歳で亡くなりました。龍妙上人は昭和45(1970)年12月に95歳で逝去され、娘の美智さんが深敬園の後継者になりました。
孫の直美さんもインドのアジア救らい病院で働くなど、龍妙上人の心を受け継ぎ、伝えています。
ハンセン病救護施設『身延深敬園』は日本では民間で最初のハンセン病救護事業で、広く海外にまで知れ渡りました。創設当初は『身延深敬病院』といい、昭和17(1942)年『身延深敬園』に改名されました。 大正9(1920)年7月、財団法人になりました。昭和45(1970)年10月には高松宮さまご臨席のもと、創立65周年記念式典が行なわれました。特に厚いご同情を賜った貞明皇后の歌碑が園内にあります。深敬園は平成4(1992)年に閉鎖され、現在は身体障害者養護施設『かじか寮』になりました。

     

【晋役職歴・褒章など】

◆山梨県の社会福祉事業全般にも尽力し、昭和26(1951)年に設立された山梨県社会福祉協議会の初代会長を務めました。

◆昭和34(1959)年、日蓮宗大僧正に昇叙されました。

◆昭和43(1968)年、身延町名誉町民に推戴されました。

◆身延深敬園創立経営の功績により

 

大正10(1921)年、宮内省より銀杯を下賜

 

昭和3(1928)年、内務大臣より銀杯を下賜

 

昭和5(1930)年、貞明皇后より銀製花瓶並びに金一封を下賜

 

昭和15(1940)年、勲六等瑞宝章を受章   山梨県知事、厚生大臣より表彰

 

昭和32(1957)年、藍綬褒章を下賜

 

昭和39(1964)年、勲四等旭日小綬章

◆社会事業に尽滓の功績により

 

 昭和26(1951)年、山梨県知事より県政功労者として表彰

 

 昭和28(1953)年、厚生大臣より表彰、朝日新聞社より保健文化賞

 

 昭和43(1968)年、山梨県教育委員会より文化功労者として表彰

 

 昭和43(1968)年、日本仏教伝道協会より、仏教伝道実践者として仏教伝道文化賞を贈与

◆昭和45(1970)年、正五位勲三等瑞宝章を追賜されました。