縁 起
当山は、慶長20年(1615年)開基 本覚院日説上人は、身延山第26世法主猊下 知見院日暹上人より寺山号(了應山)を允許されました。
身延山直末、西谷鏡師法縁の寺であります。
開基上人の墓石には「奥の院杉3千7百本植樹、修造25両納之」と刻まれております。
古記録(元禄4年 1691年)に身延本山より、「登詣の砌り、中老席」「永代諸役免除」また、「本秀寺々城 5百間(900メートル)四方」と記載されておりますので、開基上人は財力の豊かな方であったと思われます。
現在 第31世 田中是教
■本尊
一塔両尊三宝尊・祖師像
■仏像
○行学院日朝上人像 ○鬼子母神像
○清正公(加藤清正)像
○大黒天像(山城ノ国 高山寺開基 栂尾 明恵上人 親刻)1173年〜1232年
■寺宝
○日蓮聖人御真筆 一遍主題
○日親上人(鍋かむり)曼荼羅 ○知見院日暹上人曼荼羅
○原田慶雲(慶次郎) 作 日蓮大聖人御一代記 彫刻(楠材 46枚)
■木版画 : 日蓮聖人ご一代記画譜(詳細ページへ→)
→綱脇龍妙上人(綱脇龍妙上人詳細ページ→)
■原画 : 堀内天嶺画伯 / 木版 : 佐野泰師(初版)
開基 本覚院日説上人 御廟 |
お題目塔 ○参道入り口石塔(写真右下) 自然石 岳南地区最古のお題目塔 |
七面大明神 その昔は七面天女と呼ばれ、日蓮宗において法華経を守護するとされる女神であります。七面天女は、当初日蓮宗の総本山の身延山久遠寺の守護神として信仰され、やがて日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院(当山も以前は七面堂のお堂)で祀られるようになりました。 七面天女は、その昔、日蓮大聖人が現在の妙石坊の高座石で説法されている時に、度々拝聴に現れていた若い娘が、化身を見破られると身延山の守護を約束して、竜に変じて七面山に帰っていったというお話が残っています。七面山は、山梨県南巨摩郡早川町にある標高は1982mの山で、東には身延山をはさんで、富士山が見えます。春・秋お彼岸の中日には、太陽が富士山の山頂から昇り、光り輝きます。 |
日朝上人像 応永29年(1422年)伊豆宇佐美村にお生まれになり、8歳で出家され行学二道(修行と学問)に励みました。41歳の時、身延山久遠寺の第11世法主になられました。日朝上人は難行・苦行から61歳の時、両目失明に遭われましたが、経力により眼病は快癒いたしました。爾来、「目の神様」「学問の神様」として多くの人々に 親しまれております。 |
一遍主題 11p×21p 日蓮大聖人御真筆と言われております。 右端に建長五年四月廿八日(日蓮大聖人立開宗 の日付です) お題目は、南無妙法 蓮華経と二列 に、左下に日蓮と書かれております。 裏書きに 「宗祖大士御真筆 無疑者也 ※大成山 四拾壱世 日厚 花押 ※大成山 本立寺(本山 伊豆韮山) 明治三十二年七月吉祥日」と書かれております。 |
鬼子母神像 原田慶雲(慶次郎) 作 鬼子母神はもともと、子供を食べる鬼神でしたが、我が子をお釈迦様に隠されて、その悲しみを知り改心し、その後、人の子供を守る善神になったとされている言い伝えから、子供が無事成長するようにと祈る信仰が生まれ、法華経の守護神として、子授け・安産・子育ての神として祀られています。 |
大黒天像 山城ノ国 高山寺開基 栂尾 明恵上人(1173年〜1232年) 親刻 大黒さまといえば、左肩に大きな袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持ち、米俵をふみ、いかにも福々しい姿をしております。そのルーツは、サンスクリット語でマハーカーラ「偉大な黒い者」と呼ばれるインドの神様であります。昔より台所に大黒天を祀っておけば食べることに困らないといわれ、台所の神ということで、大黒天は主婦の守護神となりました。主婦の台所仕事が上手くいけばその家も安泰ですから、大黒天は更に家の守護神となり、広く信仰されるようになりました。 槌(つち)は土(つち)に通じます。土というのは全てのもの(作物)を生み出すものです。その土はすなわち田(た)。宝(たから)は田から出てくる、つまり、田からは土(田)から出てくるという意味で、大K天は豊作の神となりました。また、大K天がかぶっている大きな頭巾は、それ以上上を見ないためで、謙虚であるべきことの教えだそうです。大K天が乗っている二俵の俵は、二俵で我慢せよという「知足」(足りを知る)の教えであるといいます。当山の大黒天は、俵の上に蓮の葉が乗っており、その上に大黒天がまっすぐ立っているという珍しい像です。 |
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■事業 昭和56年 宗祖700遠忌報恩記念 庫裡書院新築 |
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平成13年 本堂落慶式 写真 |
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